全国津々浦々、少し足を伸ばせばマクドナルドのハンバーガーが食べられるこの時代。だが驚くべきことに、そのマクドナルドが日本に入ってきたのはたったの51年前だ。51年でどのようにしてここまで普及したのか。その足掛かりを作ったのは、なんと本学出身の山迫毅さん(64年度・済卒)だ。山迫さんは、1971年に銀座三越にオープンしたマクドナルド日本1号店の元店長である。今回はその山迫さんに話を聞いた。
山迫さんが初めてハンバーガーに出会ったのは中学生の頃。東京都町田市内の中学校で卓球部に所属していた山迫さんは、近くにある米軍キャンプで行われた卓球大会に参加。そこに用意されていたハンバーガーを食べた時、その美味しさに衝撃を受けたという。
その後社会人となった山迫さんはロサンゼルスに渡り、そこで初めて本場のマクドナルドを目の当たりにする。帰国後、無職になった山迫さんは、「マクドナルドの店長候補求人」の新聞広告を見つけ応募。500人以上の応募者がいたが、無事難関を乗り切り店長候補として採用された。
その後銀座店店長となった山迫さんはオープンまでの約一ヶ月の間、調理法や接客などのマクドナルドのノウハウを徹底的に叩き込まれた。当時の日本の働き方はマニュアルよりも現場の経験と勘に頼っていたことが多かったため、山迫さんにとってマニュアル化はとても新鮮に感じたようだ。1ヶ月という短時間でオープンに間に合わせるには相当な気概が必要だと思われるが、山迫さんは「100%は無理。60%覚えることを目標にしていた。失敗するのは自分たちだけでいいから、それを見て後続店は学んでほしい」と肝を据えていたそうだ。
そして1971年7月20日、ついにマクドナルド日本1号店がオープンする。この1号店は立食形式の店舗であった。どちらかと言えば持ち帰りが多く、開店当初は閑古鳥が鳴いていた。当時の日本は立ち食いの文化が浸透していなかったため、お客はほとんど外国人だったという。しかし、この状況を打開したのは、偶然来日していたアメリカ人のボーイズスカウトの人たちだった。彼らは日本のマクドナルドを見つけるや否や歓声をあげ、休日で賑わう銀座通りで地面に座り、ハンバーガーにかぶりついた。その光景に憧れた日本の若者たちが真似をするようになり、その後全国にマクドナルドが広がった。
マネジメントも山迫さんの仕事だった。当時の平均よりも高い時給220円で、半径4㌔の大学に募集をかけた。その中には本学も含まれていた。500人程応募があった中で80人を採用。殆どが女子大生であった。
この1号店における働き方の中には、今につながっているものもある。その一つは、店員が会計で1万円札をお客から渡される時に札を間違えないよう「一万円入ります」と声に出すことである。これは山迫さんが考え出したものだ。
休日は歩行者天国となり銀座通りは大変な賑わいであった。当時の日本は並ぶ習慣がなかったためレジ目掛けてお客が押し寄せ大混乱、そこで窮余の策として、商品毎にレジを決め、お客を振り分けることで急場を凌いだとのこと。これが後のセット販売に繋がったと山迫さんは語る。
1号店は1984年に閉店したが、山迫さんは寂しさよりも達成感の方が大きかったという。「一緒に働いたアルバイトの方たちに感謝している」と話す山迫さん。私たちが昼休みに友達と一緒にビックマックを頬張れるのも、山迫さんの奮闘があってのことだということを忘れてはならない。